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■ 小布施栗の紹介 chestnuts
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| ■小布施栗の起源 |
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小布施栗の起源にはいくつかの言い伝えがあります。
まずひとつは、弘法大師空海が諸国を旅しているとき、この地に立ち寄りを小布施と名付け、栗を三粒蒔き増えたと言う説があります。
しかし、全国には弘法大師がその土地の産業や奇跡を起こしたという言い伝えが至るところにあり、産業の発展を願う庶民の願いから生まれたもので
確証はありません。
室町時代の初期、荻野常倫が現在の小布施町雁田に二十端城を築いたとき、旧居城丹波の国から松川氾濫防止と荒廃地の利用、食用するために移植
したと言われています。しかし、古い文献と荻野常倫本人を照らし合わせてみると年譜が合わない不明な点が多く確証はありません。
そして、徳川家康の養女小松姫が松代藩祖真田信之に嫁ぐ際、化粧料として栗林を賜り、以来松代藩の管轄になった説もありますが
年譜が前後して確証はありません。
小布施栗の起源は伝承が多く確証はありませんが、いにしえの浪漫を感じるものがあります。
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| ■小布施栗の変遷 |
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伝承の中で戦国時代後期には広大な栗林があったのではないかとされています。
江戸時代初期、小布施が松代藩の『御林』となり管理され始め、収穫された栗を厳選して将軍家に献上していました。
当時『御林守』と言う松城藩から任命された役職があり帯刀が許され、『御林守』は松代藩の厳しい掟に従い栗林の管理していました。
その掟は栗の木をみだらに伐採の禁止や風倒木や折れた枯れ木まで集めさせ告知を徹底していました。
小布施栗は将軍家への献上が終わらないと持ち出すことはおろか栽培者ですら食べることができず、栗林は『留め林(とめばやし)』
と小布施栗は『御留め栗(おとめくり)』と呼ばれるようになり、『栗年貢(くりねんぐ)』を納めた後は自由に食べる事や商人と取引できました。
その後、栗林の一部が幕府直轄の天領になりました。
江戸時代には栗林がうっそうと茂り現在とは逆に人家が点在していましたが、明治維新を迎え栗林は開発や養蚕の普及発達による桑への
転作で大正時代には減少の一途をたどります。
昭和時代、養蚕の不況により再び栗が植え始められ明治初期の状態にまで戻りましたが、第二次世界大戦下の食糧増産による伐採、
クリタマバチの侵入による壊滅的な被害、その後りんご栽培が導入され再び減少しました。
現代はリンゴ、ブドウ、モモ類、ナシ、サクランボ等に転作されてきましたが、転作のきっかけが無い時代には栽培面積は増加しており
増加と減少の歴史をたどっています。
現在、小布施町全体の栗栽培面積は他の果樹と比較すると少ないのが現状ですが、大小問わず多くの農家で栽培され栗の作付面積は増加しつつあります。
その背景には、小布施栗が位置付けされる特化性と農業人口の高齢化によるものと考えられています。
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| ■土壌的な背景 |
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小布施町は酸性河川『松川』の扇状地であり、その土壌は弱酸性を帯びており、その土壌と内陸性気候的な気象条件が栗に適すると
一般的には言われています。
しかしこの扇状地の中でも栽培適地差があり、等高線に沿って中央から下端の間が特に栗には適していると思われ、昔からの栗の分布
を探ってみるとその辺りに栗林が多く分布しています。
当栗園には地面が大きくうねっている所があり、『松川』が氾濫した際、氾濫した水が流れて川になった場所を見ることができます。
小布施栗の独特な風味は、限定された地域の土壌と気候条件、そして作り手の努力が加わり作り出されます。
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| ■栗の栄養価 |
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栗の主成分は、糖質でブドウ糖やショ糖を多く含むため甘みがありご飯やパンの代用としてカロリー源になります。
ビタミンB1、C、食物繊維が豊富に含まれており、疲労回復、風邪の予防、整腸、便秘、肌の老化防止等々に効果的です。
消化吸収が良く体内で他の食物と合わさり栄養素の吸収を助けます。
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